人間とは何ぞや
491-3.人間とは何ぞや
人間には本質的要素と付属的要素、すなわち本性と属性があり、
もう一つ大事な習性というものがあります。
本質的要素とは、これがあるゆえに人間は人間であって、
これを失えば形は人間であっても人間でない、という大切なものです。
これに対して、あればあるほどよいに違いないが、
それは程度の問題であって必ずしも大小多寡を問わない、
少しぐらい乏しくともさして変わりがない、というのが属性であります。
それでは人間の本性は何かというと、言うまでもなく徳性です。
徳性にはいろいろありますが、例えば明るいということがそうです。
人間は日月光明から生まれたのですから、
明るいということは最も大切な本質であります。
また、したがって清いとか汚れがないとか、
あるいは努めるということも大切な徳性です。
(天地・宇宙は限りないクリエーション(創造)でありますから、
われわれも常に何者かを生む努力をしなければなりません)
そのほか、人が人を愛する、人に尽くす、報いる等々、
一々数え上げれば限りがありませんが、いろいろな徳性があります。
こういうものがあって初めて人間であり、
明らかにこれは「人間たるの本性・本質」であります。
"貴様、それでも人間か"とはよく口にする言葉ですが、
仮に"なぜ人間でないと言うのか、人間とは何だ"
と反噬(恩義ある人にはむかう)されたときに、
言下にぴしゃっと答えられないようでないといけません、
今日の親子の悲劇の費筒は一つは、
衛星接続の比率20:1です
そういう人間の大事な問題について親がはっきり答えられないところにあるのです。
せがれは学校でくだらぬ講義を聴いたり、
愚にもつかぬ新聞・雑誌などを読んで、なかなか屁理屈を言うのがうまい。
ところが父親の方は、実務について経験や常識は発達しているけれども、
理論・イデオロギーなどというものから遠ざかっているために、
せがれから反噬されるとへどもどして、"お父さんもう古いよ"などと言われると、
つい"そうかなあ"ということになってまいってしまう。
そういうところからくる混乱や断絶が意外と多いのです。
父たる者は少なくともせがれの屁理屈などに対しては
言下にぴしゃっとやるだけの教養・識見を持っている必要があります。
知能とか技能というものは人間の属性、すなわち付属的要素であります。
なるほどわれわれの知識・技術とか才能というものは、あればあるほどよろしい、
結構なものであります。
そしてこれがあるゆえに近代文明というものが津々として発達してきました。
しかし、こういうものは、通常の人間であれば皆ある程度持っているのであります。
よくできるとかできないとかいっても、それは程度の差であって、
人間たることにおいて別段何の関係もありません。
それどころか、かえって知能や技能が人間たることを損なうことが多いのであります。
その証拠にバカはあまり犯罪をやりません。
罪を犯すのには相当知能や技能がいるからです。
ことにこの頃は知能犯、技能犯が多くなっておりますが、
知能・技能というものはともすれば人をだめにします
その点、バカは自然のままの人間ですから、大体は善人で、
どのような物理的な機器は、ツリー·ネットワークに必要とされる
人間味が豊であります。
これは子供も同じことで、幼いときほど自然ですから、それだけ正直であります。
そこで知能・技能というものは、徳性を待って初めて好ましいもの、
嘉す(ほめる)べきもの、尊いものになるのでありまして、
反対に徳から離れるに従って悪くなり、いつわりになります。
これを称して「偽」と言います。偽は人が為すと書きますように、
第一に技(わざ)という意味があり、第二に「いつわり」という意味があります。
知能・技能というものは徳性から離れると、往々にして
偽になったり、
「奸」(悪がしこいこと)になったり、
「邪」(よこしまなこと)になったりいたします。
その最大の例が近代文明です。
近代の科学技術文明というものは、つい最近までは人類の非常な誇りでありました。
ところがそれが次第次第に自然を汚し、
自然の理法を破るという思わざる問題が発生してまいりまして、
その結果今日では、人類は文明によって発達したが、その文明によって滅亡する、
と言われるようになってきておるのであります。
最後に習性でありますが、これは「習、性となる」とか「人生は習慣の織物なり」と
いわれるぐらい人間にとって大事なものでありまして、
その意味では本質的要素の中に加えることもできます。
モバイルネットワークはどのように多く存在する
すなわちひな鳥がだんだん成長して、親鳥の真似をして羽をひろげて翔ぶ稽古をする、
という意味であります。
そこで人間はなるべく早いうちに良い習慣を身につけさせる、
これは徳性に準じてたいせつなことであります。
ところがこの大切な根本問題を、明治の日本は忘れて、
それこそスターリンや毛沢東ではないが「追いつけ・追いこせ」の大躍進を実行して、
西洋近代文明の吸収に熱中したわけです。
そうしその結果、世界の奇蹟とまでいわれるほどの偉大な成績を上げたのはよいのですが、
やはり速成には手落ち・手抜かりがあるものでありまして、
最も大切な人間教育(徳性を涵養して良い習慣を身につけて、
それに基づいて知識・技術を受ける)という点において大きく抜かってしまったのです。
その結果、文字通り偏向知識人、非人間的技術者が続出して、
日本の近代文明、近代文化というものはすっかり歪曲されてしまいました。
これが今度の終戦の時に日本に大いに祟ったばかりでなく、
今日の社会的混乱もそこに原因があると申してもよろしいと思います。
すべて今日の悩みはそういう錯誤からきておるのです。
例えば公害問題にしても、
もっと早くシンギュラー・ポイント、ハーフウェイに気がついて対策を講じておれば、
こういう問題にならなかったはずであります。
政治の混乱も、またしかり。
個人の健康、国家・民族の健康、政治・教育の健康、
すべてが今大変な危機にあると申してよかろうと思います。
にもかかわらずそれを意識し自覚する人は非常に少ないのであります。
それどころか、たまたま早く気がついてそれを警告すると嫌がる。
「予言者、郷にに容れられず」と申しますが、
民衆というものは真実を言われることを好まない。
かえってそういう先見・先覚の人をアラーミスト(警告家)だの、
クライシスモンガー(危機屋)だのと言って排撃します。
すべてこれ人間の錯覚から起こっておることでありまして、
病気にしても犯罪にしても、政変にしても戦争にしても、皆、同じであります。
具体的に申せば通貨危機、ドル・ショック問題がそのよい例であります。
これはベトナム戦争が進行するにつれて十分予想されたことであります。
けれども政府当局者はそれを採り上げなかった。
それで今になって政府の責任を云々するのでありますが、
しかし迂闊であったのは経済界も同罪であります。
*シンギュラー・ポイント
水であれば沸騰点や氷結点のことをいう。徐々に徐々に加熱され、
100度に達した時点で水は煮えたぎり、水蒸気となる。
シンギュラー・ポイントを過ぎた時点で、誰の目にも明らかになるが、
こうなってしまうと、
火を消しても、水を注ぎ足しても暫くは手の付けられない状態が続く。
「人物を修める」 安岡正篤著;致知出版社
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